アメリカで考える――言葉を使うということ

小池愛(研究内容紹介

日本語TAとしてアメリカに来て早3ヶ月が経とうとしています。8月,あの青々と茂った木の葉は一本残らず今までに見たことのなかった,濃く,明るい,「黄」「赤」の色をつけました。新しいことを発見したことを嬉しく思いながら毎日大学までの短いサイクリングを楽しんでいます。

私は今,アメリカはインディアナ州リッチモンドという町のアーラム大学(EARLHAM COLLEGE)で日本語のLanguage Assistantとして働いています。アーラム大学の日本研究,日本語教育の歴史は古く,それを目当てに入学してくる学生も大勢います。私の生活は,JAPAN HOUSEと呼ばれるハウス(家)に学生と一緒に住み,月曜日から金曜日までは大学でTAの仕事をして,土曜日は日本人児童生徒のための日本語補習校で教科学習をし,日曜日は休息,というサイクルでまわっています。「家」とそれから「大学」,そして「補習校」この三つがつまり私の接触しているコミュニティーというわけです。そこを私は行ったり来たりしているのです。この行ったり来たりの間に,紅葉した木の葉のような新しい発見を喜んでいる・・・のです。

喜ぶということは,私が思うには「面白い」「記憶に留めたい」「形として残したい」という意識をしたことなのです。そこで,普段あまり撮ることのない写真を撮ってみました。

リッチモンドの並木道この写真は,大学を背にして正門に向かって撮影したものです。並木道の向こうには,National 40と呼ばれる大陸を東西に結ぶ歴史ある道が走っています。

この写真から先に話しました新しい色を発見した喜びが伝わりますか?どうでしょうか?

私は写真の「プロ」ではありませんが,私なりにその一瞬に感じた気持ちを閉じ込めたいと思って撮影しました。つまり,この写真から,「見たこともない,濃く,明るい「黄」と「赤」」を感じ取っていただければ,私と受け取ってくださった方のコミュニケーションは成功したと言えるのでしょう。

大学の先生のご家族に抽象画を描く方がいらっしゃいます。先日,抽象にも描く人の気持ちが込められている,では,言葉と抽象画は何が違って何が同じなのか,というようなことをお話しました。

私は写真も抽象画も手段としては違うけれど,お互いにそのときの自分自身を表現するということでは共通していると思います。そして,そこに言葉との共通性も見出すことができるのだと思います。

つまり,言葉を使うということは写真を撮るということと限りなく似ていて,自分の気持ちを込めなければいけない。そうなると,言葉の教室では何が大切なのか自ずと見えて来た・・・ような気持ちがしています。写真と抽象画,そして言葉,これらをどう捉えるのか,そんなことから言葉を使うということを考えてみるのも面白いのではないでしょうか。また新しい発見をしました。 [2010-05]