理論研究「教育文法論」

講義内容

『コミュニケーションのための日本語教育文法』表紙この授業では,日本語教育の理論と実践を「文法」の視点から考察します。テキスト(『コミュニケーションのための日本語教育文法』野田尚史編,くろしお出版)で述べられている主張についてディスカッションを行うとともに,実際に教材作成に取り組みます。それらの活動を通じて,現在の日本語教育の背景にある 言語観,日本語教育観について考えます。

教科書

  • 野田尚史(編)(2005).『コミュニケーションのための日本語教育文法』くろしお出版.

評価方法

出席および授業参加50%,期末レポート50%

受講生よりひとこと

修士課程17期生より(2010年秋学期)

「教育文法論」受講を考えている方に向けて

修士17期 S.Y.

私は,修士論文提出を目の前にした4期目に,この「教育文法論」を受講しました。なぜ,4期目の受講となったのか。それは,今,皆様が心の中に持っている予想と同じようなものを持っていたからです。

「文法の教え方を教えてくれるはず」と期待している方,「『~ている』の分類や『と・ば・たら・なら』の違いを分析するのだろう」と予想している方もいるでしょうし,「今までの経歴の中で,文法の教え方は充分にやってきたから,私には必要ない科目」と捉えている方もいるでしょう。事実,私もそうでした。私は「文法の教え方なんて,人に教わるものではない。自分で分析して,自分で編み出して,自分で育んで行くもの」だと考えていました。だからこそ,本科目の受講が4期目となったのです。

しかし,「教育文法論」は,「文法の教え方」を学ぶ場ではありません。また「教科書の文法を分析する」場でもありません。

では,何をするのでしょうか。

本科目で受講生が行うこと,それは,各自の中にある,これまでの「日本語学に基づいた文法による『日本語文法』の考え方」を根底から問い返し,解体していくことです。その上で,「日本語教育のための『教育文法』の考え方」を知り,自らの中に「教育文法観」を取り入れ,自分の中の日本語教育における「教育観」「学習観」というものを再構築していくこと,なのです。

本科目受講後,提出した期末レポートの終わりに,私は次のように述べています。

筆者ら日本語教師は,学習者達に日本語を教え,日本語教育を研究しながら,それと同時に,日本語によって生かされている。日本語教育を研究する筆者らこそが,自分らしく生きるために必要なコミュニケーションのための日本語の文法とはどういうものなのか,教育文法とは何なのかを深く考えていかなければならない。さらに言えば,それ以前に,筆者らが,コミュニケーションをどのようにとっているのかをきちんと振り返り,科学していく必要があるのである。コミュニケーションを目標としたプロセスの中での「日本語教育」というものを行っていくためには,教育する私たちが,「コミュニケーション」について繰り返し問い返し,既存のものを解体しては,新たなものを再構築していくという作業をし続けなければならないからである。「問い返すこと・解体・再構築」この三つは,時が流れ,社会が続き,日本語教育が続く限り,留まることなく繰り返し循環がなされていくべきものなのであろう。

最後に,この科目がなぜ「日本語教育文法」なのか,不思議に感じていたことに対する答えが,最後の最後に見つかったことを付け加えておきたい。

「文法」も「教育文法」も,同じではないかという意識が,筆者にはあった。それはある意味,筆者の文法観から見た「文法と教育文法」であり,そこから見れば,今も同じである。なぜなら,このレポート内で述べてきたように,筆者にとっての文法とは,我々が我々自身の人生を生きていく中で必要とされる言葉のルールであり,その言葉のルールを教えているのであるから,日本語教育とは,人生の文法である,と考えているからである。

しかしそれは,日本語教育に従事している者としての感覚なのであろう。なぜなら,まだまだ「文法」というものの固定観念がぬぐえない人たちや領域も多くあるのだということを,この科目を履修したことにより,改めて感じたからである。そしてまた,筆者や日本語教師の仲間達でさえも,今でもふとした拍子に再びその「文法」という固定観念にとらわれ,陥ってしまうこともあるのかもしれないのである。そうはならず,「観念は固定すべきではない」とはっきり意識し続けていくためにも,「文法=日本語を解明するための日本語のためのルール,日本語学に基づいた言葉のルール」と,「教育文法=日本語を学ぶ人たちのために編成された日本語のルール,日本語教育学の成果としての言葉のルール」を分けて考える必要があるのである。他研究分野のための道具でも付属品でもない「日本語」の存在が認められ,そのための日本語教育学の確立が主張されている。だからこそ,日本語教育のための,日本語教育学による,日本語教育学の言葉のルール「日本語教育文法」の研究が進められ,その成果がまとめられることが今,いち早く望まれることなのである。

(2011年5月7日加筆修正)

本科目の受講登録を目の前に,そして私のレポートを読んだ今,皆様の頭の中には更に疑問がわいてきていることと思います。

  • 「文法」とは何か
  • なぜ文型積み上げが否定されるのか
  • 文型積み上げは本当に否定されるべきものなのか
  • 「文法を教えること」はナンセンスなのか
  • どのように文法を教えていくべきなのか
  • 何が「教科書」か
  • 教科書の中の文法は,「文法」か「教育文法」か
  • 日本語教育にとって,文法と教育文法はどのような意味があるのか
  • 従来の文法は,学習者が求め,かつ,教師側が教えたい文法だったのか
  • 日本語教育の中の「文法」の今後の担い手は誰か

数々の問いが浮かび,頭の中はカオスで満たされ,何がなんだか分からない状態になっているかもしれません。けれども,「教育文法論」の講義に取り組んでいく中で,これらの疑問に対する答えが,自ずと見つけられるはずです。そこには,それまでの自分の持っていた文法観,教育観を根底から覆される「解体の痛み」を伴うかもしれません。しかし,それ以上に,新たな「教育文法観」を見つけ,今後育んでいくべき道を歩き始めることができた喜びも感じられるのではないかと思います。

全講義が終わる頃には,日本語教育における,「文法」と「教育文法」は何が違うのか,そしてそれはなぜ違い,どちらが今,日本語教育に必要とされているのか,という答えを見つけることができるはずです。その答えを見つけることができれば,「日本語教育」を研究している私たちが今後,何を目指し,何を考え,どのように動いていくべきなのか,その道筋が見えてくるのではないでしょうか。その意味でも本科目は,今後の日本語教育の担い手には必須の理論科目である,といえるでしょう。

修士課程15期生より(2009年春学期)

「文法」に対してずっと苦手意識を持っていた私が「教育文法論」を受講したのは,

  • この苦手意識を何とか打破したい,
  • この授業でならば,私の「文法」に対する偏った見方を変えられるのではないか,

そう考えたからである。

もちろん,
金曜1限は甘くない。
小林先生も甘くない。
受身でなんかいられない。
座って話を聞いていれば,答えがもらえるわけでもない。

けれど,日本語教育における「文法」そのものを問い直す先生の考え方に触れ,そこから私たち受講生も,自分たちのフィールド,これまでの経験からあらためて「文法」というものを考えた。その中で,はじめて「文法」というものを「自分で」考えてみたような気がする。それによって,「文法」に対する見方は随分と変わった。

私の中の「文法」に対する苦手意識が完全に消えたわけではないし,何かの明確な答えが見つかったかといえば,そうではない。でも少なくとも,「文法」を自分のこととして考えられるようにはなった。
それは,これから日本語教育に関わっていきたいと思っている自分にとって,とても大きな変化,気付きだったと思う。

それが,私が「教育文法論」で得たものである。(ゆ)

修士課程13期生より

「文法ってなんだろう」という問いかけから始まった教育文法論。当たり前に存在しているかのようで,そう問われると,答えに窮してしまう。

授業で講読する『コミュニケーションのための日本語教育文法』の帯には,「文法が変わらないと日本語教育は変わらない」と書いてあった覚えがある。今,受講を終えて,考えてみると,まさにそのとおりであるように思える。

初級日本語文法というものは,誰もが疑いを持たない既成のものとして存在しているかのように思われる。易しいものから難しいものへと積み上げていくというのが,暗黙の了解である。

初級日本語文法を考えるとき,こうした従来の考え方でよいのか。4技能において,必要とされる文法は同じでよいのか。日本語学習者が日本語でコミュニケーションをとるという目的が果たせるようになるには,初級はどのような位置づけにあるべきなのか。

この受講を通して,従来の初級日本語文法や初級日本語教科書を,当たり前のものであると疑いもなく受け入れるのではなく,批判的に,また,常に疑問視しながら考えるという姿勢を持つことができたように思う。

修士課程11期生より

2006年春から,蒲谷宏先生の待遇コミュニケーション研究室に所属しております。

私は,日本語におけるコミュニケーションストラテジーに興味があります。日本語母語者と非母語話者がお互いの考えを理解し,様々な考え方があることを認識することが大切だと思います。では,コミュニケーションに興味がある私が,どうして「教育文法論」を受講することにしたのでしょうか。

「教育文法論」では,文法そのものよりも,日本語でのコミュニケーションにおいて,極めて大事な要素の一つとしての「文法」を捉え直していきます。文法研究関係の論文を批判的にたくさん読んでいきます。

現在の日本語教育で教えられている文法項目は実際のコミュニケーションに役に立つのか。文法の「規則」とはどういうものなのか。「規則」としては正しくないがネイティブのほとんどが使っている日本語は正しいのか正しくないのか。「正しい」とは何か。誰が決めるのか。

「文法教育論」は,日本語教育の世界でよく口にし,耳にする術語の意味を深く考え,様々な「あたりまえ」なことについて再考していく非常に面白い授業です。他者との関わり合いに興味を持っている方にぜひこの授業をお勧めします。

修士課程11期生

「コミュニケーションのなかで文法を考えると,すごくおもしろいですよ」

小林先生が4月の入学式におっしゃったこの一言が,なんとなく気になった。日本語教師にとって,文法は避けたくても避けられないものなので,それにどんなおもしろさがあるのか興味深く思って「教育文法論」の授業を登録した。

教え方ではなく,内容だ。初級で「命令形」を教える必要があるか。「つもりだ」は使われやすい形式を反映しているか。言語研究で重要な文法項目は学習者にとっても重要か。学習者の母語を考慮した教育文法とはどんな文法であるか。毎週金曜日,みんな熱心に話し合っている。

1限の授業は眠い。金曜日の授業はもっと眠い。金曜日の1限(※2006年度のみ)は超眠い??小林先生はおもしろい!!金曜日の目覚まし時計だ!!!

修士課程9期生より

「教科書にある文法だから勉強しなければならない」という気持ちは,教師でも学習者でも感じてしまうものだと思います。でもその「教科書にあるから」という理由は,実は「無目的な教育」につながってしまう安易な発想でした。

私はこの授業で,「なぜこの文法は必要なのか」あるいは「本当に必要なのか」ということを改めて問い直しています。

修士課程8期生より

外国語教授法の変遷を見ると,正確さ重視の詰め込み教育から学習者主体の授業へと変化しており,一見当たり前の流れのように見えます。しかし,これまでは「どうやって教えるか」ということばかりに気を取られ,「何を教えるか」には焦点が当てられなかったといいます。

この授業に出てから日本語教科書を開いてみると,どれもこれも同じような内容に見えてくるはずです。学生に必要な「文法」とは何か?自分の「教え方」ではなく「教える内容」を考え直す良いきっかけになりました。刺激的な授業ですから,金曜1限(※2006年度のみ)でも居眠りなんてできません。