前途遼遠@オレゴン
――遼子のアメリカ大学院留学だより
山﨑遼子(研究内容紹介)
第4回 「What Can We Do for The World(2006年10月)」
オレゴン州の高校で教育実習がはじまって1ヶ月以上が経つが,最近,自分が高校時代に受けた教育を振り返ることが多くなった。現在,オレゴンでは州の制定した各教科ごとのスタンダーズを指標として教育が行われているが,まず目標を制定し,アセスメントし,それから具体的な教室でのプランを立てるバックワードデザインという考え方が根本にある。また,問題解決するにはどうしたらいいのか考えること,批判的に社会を見つめることといった概念が,教育のあちらこちらに散りばめられているように感じられる。
私は,高校時代,暗記中心の「勉強」をしていた。例えば,歴史の授業で,「何年何月に誰が何をした」というのを必死になって覚えていた。しかし,その出来事の背景にあった人間の目論見やつながり,事の原因などを生きた文脈として捉えて考えたことがほとんどなかったのではないだろうか。
先日,見学していた社会科の授業で,高校1年生がネイティブアメリカンについて学んでいた。白人がどのような悪いことをしたのかを講義,映像で知ったある女生徒が抑えきれない様子で大きな声で言った。「私たちの祖先が悪いことをしたっていう事実はわかる。でも,今ここ(教室)では事実を学んでるだけで何にもしてないじゃない。何で何にもしないの?」生きた文脈につなげる学習を生徒も求めているのだ。
その教室を出る時,壁に張られた貼り紙にはっとさせられた。
What can we do for the world? (世界のために,私たちは何ができる?)
私は高校の社会の時間に,こんなことを考えたことあっただろうか。
(山﨑遼子@オレゴン:写真はウィラメット川)