書評:日本語教師が主体的な学びを推進していくために

トムソン木下千尋

表紙『日本語教師の「意味世界」――オーストラリアの子どもに教える教師たちのライフストーリー』

オーストラリアは日本語教育大国で,学習者の9割以上が小中高校で日本語を学んでいる。その現場では数多くの日本語教師が様々な「意味世界」を持って,子どもたちを対象とした教育実践を行っている。本書はまず,オーストラリアにおける日本語教育の始まり,その言語教育観と関連政策の変遷,そして,オーストラリア社会における日本語教育の位置づけを時間軸に沿って詳しく検討している。この背景知識は,オーストラリアの日本語教育を知る上でも,本書の後半で日本語教師のライフストーリーを巡ってそれぞれの「意味世界」を検証していく上でも重要である。太田は,本書における「意味世界」を「日本語教育の意味と実践に関して日本語教師が持っている意味付けの総体」と定義している。本書は,日本語教育の実践を教師の「意味世界」に焦点を当てて検証しているところが新しい。

教師の「意味世界」は,事例として挙げられている三人の日本語教師が「教室」「学校・職場」「地域」における個々の経験を通じて作り上げてきたものである。三人は,イギリス系オーストラリア人,学童期に移民したアジア系オーストラリア人,イギリスからリクルートされて小学校の日本語教師となったスコットランド人と,三人三様である。職場環境も多様で,各自が,学力的にも経済力的にも違う職場で教えてきただけではなく,教育政策の流れに,そしてオーストラリア世論の波に揉まれた職場自体の環境の変遷をも経験している。彼女らの「意味世界」は,従来の日本語教育研究が捉えてきたよりはるかに多層的で多様な状況との関連付けの中から生まれて来ている。筆者,太田の力量は,この三人の教師から,たぶん本人たちでさえ意識していなかった彼女らの総合的な「意味世界」を引き出し,その多義性,可変性と同時に共通項を示したところにあるだろう。

本書を読んで,大学以外の教育経験の乏しい私には,学ぶところが大きかった。本書には,大学の現場よりもさらに切実に政府の教育政策に左右されるオーストラリアの小中高校の日本語教育の様子が,そして日本語教師の葛藤が描かれている。10代の生徒たちの生活や心と向き合って,全人教育の一環として言語教育に従事する教師の日々の実践が読み取れる。大学教育の現場でも1年生は17,18歳で,本書で描かれる子どもたちと紙一重であることを思い起こすと,自らの日々の実践を反省せざるを得ない。

本書は,博士論文を研究書として改訂し出版したものと理解している。博士論文であれば,事例の詳しい記述,その念入りな考察と更なるまとめは必須であろう。しかし,研究書として読み進めるには繰り返しが多く,説得力をかえって失ってしまっているようにも思えるところがひとつ残念である。だが,本書はオーストラリアの言語政策に示唆を与える様々な提言を含んでいる。日本語教師が主体的な学びを推進していくための提言は特に有用だ。本書が日本語の研究書に終わらず,英語の報告書としてオーストラリア政府の目に留まる日が来ることを期待する。

(とむそん・きのしたちひろ:オーストラリア・ニューサウスウエルス大学)

初出:メールマガジン『ルビュ言語文化教育』第363号「この新刊がおもしろい」(2011年4月29日刊)http://archive.mag2.com/0000079505/20110429080000000.html