書評『海の向こうの「移動する子どもたち」と日本語教育』

多様な子どもに多様な教え ― 「動態性」が鍵を握る多様な時代のダイナミックな日本語教育

中村栄子(シドニー在住,日本語教師)

この本は,作者があとがきで述べているように,まさしく「移動する子どもたち」への日本語教育実践を論じる「野心的試み」である。これは斬新であり,まさにこれからの時代の日本語教育のあり方を提案・実証していくための第一歩であると大いに共感できるものであり,今後に期待したいものである。

日本人の海外への移動に伴い,世界各地で日本語を学習している子どもたちは確実に増えてきている。いわゆる補習校や週末学校は,世界で初めて始まったといわれる1958年のワシントン校であるから,その他の国でもおそらく長い歴史を持っていると思われるが,この間日本語を学んでいる日系人子女は世界中に既にいたはずである。この本に記述されているように,今ではその生徒の種類の多様性たるや,書かれている通りであろう。

それなのに,この分野の研究が日本語研究の本流から外れていたために,海外に駐在していた在外邦人の子女はもちろん,永住した在外邦人や国際結婚をして海外に住んでいる日系人子女の日本語教育が継承語の問題とみなされ,日本語教育実践と直接結びついて論じられることがなかったということは,全くの死角であったと言うしかないのではないだろうか。全く残念なことである。

海外在住の日系人子女の数が20世紀後半から増え続けているという社会現象に早くから気づき,この本やこれ以前の川上の著書は,遅れをとった研究領域に目を向けさせ,その社会的重要性を知らしめるという意味でも重要であると思われる。また編纂されている研究論文をして多角的に日本語教育の現場を報告し,新しい試みをして現状を改善しようとしている研究報告は今後大いに成果を生むと考えられる。

またこの著書の第1部で川上は,海外子女に対する言語教育研究の歴史を要約しながら,彼独自のこれからの日本語教育観を述べている。そこではCCBなるものを提案し,この「移動する子どもたち」の成長にともなう「ことばの力」を育むためにはどうしたらいいかという日本語教育の実践について話を展開している。CCBの子どもたちは(1)空間,(2)言語間,(3)(既存の言語教育の)カテゴリー間を移動,という面白い条件を有していると述べた上で,「CCBの子どもは動態性がある」という。そしてそういう動態性のある子どもに「ことばの教育」を実践する私たち教育実践者も必然的に「動態性」があると続く。そしてその実践のあり方の構築へと話が展開する。そして結論として,CCBを対象にした「移動の時代」の教育実践は既存の言語教育にとらわれない,動態性のある学習者と実践者が「相互主体的関係」から「相互構築的関係性」を持ちながら作っていくものであるというあり方にシフトしていくと述べている。これは全く同感であり,核心をついた説明である。

ただ,一つひっかかるところがある。それは川上の言っていることは理論上ではよくわかるのだが,実際に補習校や週末学校のようにまとまった数の生徒を制度上出来上がったシステムの中で教えるとなると,なかなかうまくいかないのではないかということだ。こうした学校には既に言語背景の多様すぎる生徒が存在しているのである。川上の理論は,個人教授か,少ない人数で教える場合はもちろん実践可能であり,実践している人は多いのではないかと思われるが。(実際私も川上の指摘する「動態性を持つ日本語教育」を実践として行っているつもりであるので,経験的に実感もある。それでも指導について成長中という動態性を持つ一教師としては模索は延々と続くのである。)

第2・3部は,世界のそれぞれの国で生きる移動する子どもの実例をもとに,継承語として,また外国語としての日本語教育の現場の実践報告がつづられている。第4部には日本語教育実践者の学びがどう実践に影響を及ぼすかを調査報告した論文が続く。個人的には第2部が一番興味深かったが,それぞれに興味深いテーマに対して手ごたえある洞察のある研究論文である。これからもそれぞれの分野での研究が進むことを期待するばかりである。

表紙:『海の向こうの「移動する子どもたち」と日本語教育』『海の向こうの「移動する子どもたち」と日本語教育 ― 動態性の年少者日本語教育学』
  • 川上郁雄(編・著)
  • 明石書店より2009年09月刊
  • 3,465円(税込),246p,21cm,ISBN:978-4-7503-3061-7