「移動する子ども」という記憶と力――ことばとアイデンティティ

川上郁雄(編),くろしお出版より2013年2月刊

書評

川上郁雄編『「移動する子ども」という記憶と力――ことばとアイデンティティ』を読んで

佐久間孝正(東京女子大学名誉教授)

最初に本書を手にした人は,「おや?」と思われたのではないだろうか。あまり耳慣れない表題だからである。「移動する子ども」は,いいとして,「移動する子ども」「の・・・」ではなく,「移動する子ども」「という・・・」表現に違和感をもつ。しかし,読んでみると,そこには重要な意図が込められている。

これまで海外から移動してきた,あるいは海外に移動した子どもが日本語や母語をいかにして学んでいるかに関しては,さまざまな研究がなされてきた。当然,その場合の主眼は,いかに子どもに日本語や母語を習得させるかにあった。しかし本書の特徴は,「移動する子ども」を幼少期より複数言語空間に身を置いた経験をもつ「記憶と力」の持ち主として捉え,さまざまに成長する可能性をもつ「移動する子ども学」ともいうべき新分野の開拓が目指されている。

これは子どもを単に移動する客体,多言語を習う受け身として捉えるのではなく,複数の言語環境に身を置く主体,そのような環境を記憶にとどめ,柔軟性や力を秘める主体とみなし,さまざまな関係性を身体化させている子どもの可能性を捉える立場である。別言すれば,無限の可能性をもつ子どもは,どのような言語を身につけるかにより,アイデンティティのあり方も異なるが,双方の関係に関する構築主義的な研究でもある。いささかとりつきにくい印象をもったのは,こうした意図が込められていたことによる。

子どもを主体として捉えるということは,親をもとにした名づけによる分類では不適切ということになる。子どもは時代や環境と共に,日々刻々と自分をつくり変えている。ということは,もともと親世代で子どもの出身や身分を表現すること自体,無理なのだ。また,これまでなされてきた外国人の子どもの多くの研究も,研究者の眼によるアカデミックな観点や入管施策による政治的な命名のもとに分類された枠組みに依拠しており,とうてい多様な子どもの現実を反映したものではない。

イギリスでウェールズの学校を訪問した折,学校・学級言語はウェールズ語であるが,遊びの時間は,英語であった。生徒たちにウェールズ語を習って,いつウェールズ語を話すのか聞いてみた。すると祖父母や地域の老人,さらに英語を知らない母親と話すには,ウェールズ語が必須だということであった。かれらは,話す対象者いかんで,臨機応変に言葉を変えている。これを遠い,多言語社会イギリスの話とみていた私は,本書に収められた英語,中国語,フランス語,韓国語,そして日本語等,多言語を家族のなかにおいてすら相手いかんで使い分けている人々がいることを知り,多言語,多文化,多アイデンティティの現実と今後の迫りくる姿に驚いた。移動する子どもの何と柔軟な現実即応力だろうか。子どもを既成の概念,枠組みで研究するのは,はじめから限界がある。

現在日本は,英語教育が間もなく小学校3年次からなされようとしている。世界のグローバル化により,複数言語に身をおきながら生活する子どもは,ますます増えるだろう。「『移動する子ども』という記憶」,「『移動する子ども』という主体」,「『移動する子ども』という言葉のゆくえ」の3部からなる本書は,執筆者自身の移動,多様な言語空間経験,そのような環境でもがきながら日々構築しつつあるアイデンティティ研究の新地平を映し出している。人の移動や子どもの教育,日本語指導に関心をもつ人にぜひ薦めたい一書である。