工藤育子(くどう いくこ)

研究テーマ

  • 評価とは何かを問い続ける日本語教育実践――日本語学校の教師と学生によるナラティブ探究

業績

論文

  • 工藤育子(2012).『「書く」行為がもつ対話性――日本語学習者の「書き直し」の背景を探る』早稲田大学日本語教育研究科修士論文(未公刊)[概要書:PDF].

発表

  • 工藤育子,市嶋典子,細川英雄(2014年7月12日).「市民性形成とことばの教育 (3)――成績から評価へ」(パネルセッション)日本語教育国際研究大会2014(シドニー工科大学).
  • 工藤育子,當銘美菜,孫雪嬌(2014年3月29日).「『あたりまえ』を疑うことから始まる――他者とともに語り合うワークショップ」(企画:ワークショップ)早稲田日本語教育学会2014年春季大会(早稲田大学).
  • 工藤育子(2014年3月15日).「『わたし』は,そのことばの中にいる(1) ――「対話報告レポート」に浮かび上がるテーマの混淆」(ポスター発表)言語文化教育研究所研究集会大会「実践研究の新しい地平」(早稲田大学).
  • 工藤育子(2014年3月15日).「『わたし』は,そのことばの中にいる(2) ――非対面・非同期環境における言語教育実践の意義」(ポスター発表)実践研究の新しい地平言語文化教育研究所研究集会大会「実践研究の新しい地平」(早稲田大学).
  • 工藤育子(2014年2月23日).「『評価』をめぐる語り――日本語学校での『テーマ・ディスカッション』から」(ポスター発表)シンポジウム「『評価』を持って街に出よう―ひととひととをつなぐための評価研究―」(政策研究大学院大学).
  • 工藤育子(2013年1月6日).「『評価』をめぐるさまざまな記憶――日本語学校の学生らの語りから」(ポスター発表)多文化共生社会における日本語教育研究プロジェクト公開研究発表会(国立国語研究所).
  • 工藤育子(2012年12月1日).「『評価』をめぐる『教師』という記憶――日本語学習者との語り合いから」(口頭発表)日本評価学会第13回全国大会(京都府立大学).
  • 工藤育子(2012年9月2日).「『書く』行為にみえる『場』の移行と多声性――他者,自己,ことばの関係」(ポスター発表)日本質的心理学会第9回大会(東京都市大学).
  • 工藤育子(2012年7月28日).「書き直しの背景の語りを『行為』としてとらえる――『ヴィゴツキーの三角形』を用いて」(ポスター発表)日本語教育学会実践研究フォーラム(早稲田大学).
  • 工藤育子,井上貴子(2011年7月30日).「地域日本語教室における活動デザイン再考――活動デザインの『終わり方』に注目して」(ポスター発表)日本語教育学会実践研究フォーラム(横浜国立大学).
  • 工藤育子(2011年6月25日).「『書く』という行為がもつ対話性」(ポスター発表)日本言語文化学研究会第42回研究会(お茶の水女子大学).

日本語教育関係の経歴

2012年7月~現在
大学共同利用機関法人人間文化研究機構 国立国語研究所 日本語教育研究・情報センター プロジェクト非常勤研究員「社会における相互行為としての『評価』」http://www.jpforlife.jp/(リーダー:宇佐美洋)「コミュニケーションのための言語と教育の研究」
2009年10月~現在
淑徳日本語学校(東京) 非常勤講師
2010年6,11月,2011年5月,2012年5月,2013年5月,2014年5,6月
明星大学 人文学部日本文化学科 「日本語教育法」 ゲストスピーカー
2010年4月~7月
淑徳大学 国際コミュニケーション学部 留学生日本語補習講座(埼玉) 講師
2009年7月~9月
蘇州淑徳語言学校(中国) 専任講師
2007年9月~2009年6月
国立チャナッカレオンセキズマルト大学 教育学部日本語教育学科(トルコ) 専任講師
2007年6月~8月
財団法人ラボ日本語教育研修所 北米青少年日本語プログラムおよびLanguBridge日本語プログラム(東京) 非常勤講師
2006年10月~12月
会話クラブ トルコ日本文化研究連帯協会(トルコ) 非常勤講師

ごあいさつ

みなさんは「評価」ときいて,何を思い浮かべますか。「評価」って何だと思いますか。

わたしは日本語教師として,いろいろな場面で評価に立ち会うことがあります。それにもかかわらず,はっきりコレと示すことができなくて,困っています。

大学でも,日本語学校でも,日本語を学習している方を評価してきました。「話せるようになったなぁ~」とか,「よく努力する人だなぁ~」とか。同時に,テストの結果をみたり,作文を読んだりして,「文字・語彙:A」,「文法:B」,「作文:A+」のような評定も出します。その上,日ごろのすべてのやり取りをもとに,成績表に感想を書いたりするのです。

実際にそのような行為をしていながら,それでも,自分が何をしているのか,それはわたしのどんな生き方なのか,相手の人にとってはどんな生き方となるのか,お互いが創り上げていく文化としてはどんな意味をもっているのか,説明しようとすると難しいと気づきます。ことばの教育の場にある評価っていったい何なのでしょう。今ひとつすっきりとしないで,なんだかわからないのです。

そもそも,大学や日本語学校で,日本語を学習している学生の「日本語」とか「日本語の力(力ってなんだ?)」を評価するという文化はあたりまえですか?教師だけが評価するという文化もあたりまえですか?成績評価以前は学生のみなさんが率先して評価活動に参加し,成績評価は教師だけが参加するという,一見して矛盾する評価のプロセスがあるのもあたりまえですか?みなさんはどう考えていますか?わたしは,これに対する答えと答えの根拠を探している途中です。

わたしは,小学校のころから,先生が考えている「わたし」みたいなものを,たびたび受け入れられないことがありました。「あなたはコンナ人よ」,「あなたの力はコレグライよ」と先生によって示される「わたし」が嫌いで,いつも「わたし」を奪われているような感じでいました。再びわたしは,「わたし」を取り返すために,身体全部を使ったことばで表現していたと思いますが,対抗することばを生み出せば生み出すほど,「わたし」を奪われてしまうことが多かったように記憶しています。

J.S.ブルーナーは『教育という文化』(岡本夏木,池上貴美子,岡村佳子訳)の中で,「教育システムとは,文化の中で成長する子どもたちが,その文化の中にアイデンティティを見出すのを助けるものでなければならない」(p.55)としています。また,「生徒の自尊心を育てるという学校の基本的役割を弱めるものは,その最初の機能において失敗している」(p.50)とも述べています。

果たして,かつて学生だったわたしが受けた評価は,アイデンティティを見出すのを助けるものとなっていたのでしょうか。自尊心を育てるという役割を担っていたのでしょうか。そして,いま,日本語教師としてあるわたしは,学生のアイデンティティを見出す助けとなり,自尊心を育てる役割を担うという「評価」をとらえられているのでしょうか。ことばとアイデンティティ,ことばと自尊心の密接な関係を思えばなお,日本語教育に携わるわたしたちは,その実践において,評価に向き合わずして過ごすことはできません。日本語教師の一方的,権威的な評価が,日本語を学習している目の前の学生のことばと,そしてアイデンティティも自尊心も奪ってしまっているのなら,それは深刻な問題です。

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